昇降口を抜け、登下校組の生徒達の間を縫って正門の方へ歩いていくと、見覚えのある紺色のスーツが軽く手を振って豊を待っていた。

「月詠の生徒は教育が行き届いているのねえ」

開口一番に言われた言葉の意味を問うと、部外者の嘉瀬がこんな場所に居るというのに見咎める生徒は一人もいなかったらしい。

それは、この学校の風潮みたいなものだ。

他者に必要以上にかかわるな、そんなヒマがあるなら、己を磨く努力をすべきだ。

他者は、負かし、蹴落とす対象でしかありえない。

それはとても悲しいことだと、転校直後から常々思っていた。

そうですかと豊がわずかに表情を曇らせると、何かを察した嘉瀬は早く行こうと促してきた。

Time is Money、時は金なりよ、この近くに紅茶のおいしい喫茶店があるの、あなた知らないでしょう?」

「は、はあ」

「今日は特別にお姉さんがおごってあげるんだから、早く行きましょう」

ほらほらと半ば強引に連れられて、豊は嘉瀬の案内する喫茶店へと向かった。

 

カランと涼しげな音を立てて出迎えのベルが鳴り、そこは落ち着いた雰囲気のモダンなカフェだった。

人の出入りや移り変わりの激しいこの街で、ただ一件取り残されたような店内は歴史を感じさせるくすんだ茶色で統一されてある。案内された席に腰を下ろすと、嘉瀬はメニューも見ずにストレートティとミルクティを注文した。

「うふふ、私は本当はコーヒー派なんだけど、苦手な人もいるから」

オーダーの到着までは、本当に差しさわりのない、世間話のようなものばかりしていた。

こちらの逸り廃りに疎い豊は、大人の嘉瀬の話を非常に興味深く聞いていた。

天照郷の話も聞かれて、あちらでの日常を話しながら離れて数ヶ月の学び舎を思うと、わずかに胸が痛むようだった。

あれこそが、俺がいるべき場所。あそこで暮らす人々こそが、俺の故郷。

それなら月詠はなんなのだろう。

豊にとって月詠学園とは、ペンタファングとは、一体どういう存在なのだろうか。

ぼんやりしていると、名前を呼ばれた。

驚いて嘉瀬を見る豊の目の前にミルクティーが差し出される。

「甘いものは嫌い?」

聞かれて、首を振るとよかったと嘉瀬は微笑んだ。

備え付けのスティックシュガーを破いていると、嘉瀬は紅茶に何も入れずストレートのまま口元に運んでいる。どうやら彼女自身はそれほど甘党というわけでもないらしい。

「さて」

一息ついた所で、嘉瀬がバックから手帳を取り出した。

それを見て豊はわずかに姿勢を正す。嘉瀬が微笑んだ。

「そんなに緊張しなくてもいいわ、本当に、極簡単なことしか聞かないつもりだから」

「はい」

手帳をめくり、ペンを取り出した後、嘉瀬は改めて豊を見据えた。

「じゃあ、まずはここ最近の任務について話してちょうだい」

「はい」

豊は依頼のあった数件についての詳細を手短に説明した。

それほどおかしなことはしていない、いつものように呉から指示を受けて、現場へ赴き、こちらの管轄内で鎮守人の手の及ばなかった天魔達を屠る。

この街ではたくさんの人間が様々な思惑を持って暮しているから、その分邪気が尋常でなく「鎮め」で祓える天魔は殆どいない。その結果、やむを得なく「屠り」になってしまうことはどうしようもないのだと、最近理解するようになっていた。それでもやはり納得したわけじゃない。狩る必要のない分まで狩り取ってしまっているようで、それがこちらの天魔の更なる凶暴化に繋がっているように感じる。

だが、そんな自身の心情の話は、豊は嘉瀬にしなかった。

任務中に起こった出来事のみをまるで報告書のようにあたりさわりなく話した。

「なるほどね」

嘉瀬は何かしら納得したような声を発した。

「それじゃ、あなたが交歓留学に来てから、何か変わったことはある?」

「変わった、って」

そんなものは数え切れないほどある。むしろ、変わっていないものなど何もない。

生活、環境、人間関係から果ては豊自身の心境まで。

(でも、一番違うのは―――)

脳裏に見覚えのある後姿が浮かぶ。

何よりもまず彼のこと。彼と出会ってから、自分は大きく変えられてしまった。

知らなくていいこと、知れば、傷つく事をたくさん知ってしまった。その結果今の状態がある。

こちらに来てからの出来事を思い出すだけで胸が痛くて、取りとめもなく心が乱れるのを感じる。

薙を思うと、辛い。

いつもすぐそばで戦っているはずなのに、彼と自分はどこか遠く、閉ざされた世界に引き離されているように思う。

「―――いえ」

豊は答える。

「―――別に、なにも」

「そう?」

「はい、変わったっていうなら、月詠は天照と全然違いますから、それくらいで」

ふうんとペンを唇に押し付けながら、嘉瀬は何か探るような視線を豊にめぐらせた。

「ねえ」

その先端が、今度は豊の方を指し示す。

「君」

「はい」

「―――天照館に帰りたいんじゃないの?」

豊の鼓動がにわかに激しく鳴り響いていた。

テーブルの下で手を強く握り締める。乱れた心情をひたかくしにして何事もない素振りを装っているのに、嘉瀬は何もかもお見通しのような顔をしていた。

「それは、もちろん帰りたいです」

喘ぐような答だった。

「天照が俺のもともとの所属校ですし、あちらには友達もいますから」

「ううん、私が言っているのはそういうことじゃないんだけどなぁ」

嘉瀬の言葉に更にドキリと胸を高鳴らせると、彼女はまあいいわと適当に話を切り上げてしまった。

「ごめんなさいね、込み入った話は聞かない約束だったのに」

「いえ、別に」

「そう言ってもらえると助かるわ」

左手首に嵌めた華奢な腕時計を見て、嘉瀬はあらもうこんな時間と呟いている。

「結構長くお喋りしちゃったみたい、確か月詠は寮生に帰宅時間が設けられてあるのよね」

「あ、はい、夕方の」

「うん、知ってるわ、遅れちゃいけないからそろそろ出ましょう」

促されて席を立つ。

再び出入り口のベルに見送られながら、外に出ると陽は少し傾きかけていた。

灰色のビル郡に沈んでいく夕日の姿だけが天照と変わらない。

街の色を一瞬だけ焔に染め上げる天空の神は、どちらで暮す人々にも同じ眼差しを向けていた。

「今日は本当に有難う」

呼ばれて振り返ると、嘉瀬が微笑みながら立っていた。

「参考になったわ、あなたの協力の件も含めて、上にはちゃんと報告するから」

豊の懸念は知られていた。

よろしくお願いしますと、豊はなぜか一礼していた。

「じゃあ、気をつけてね、あなただったら心配要らないと思うけど、真っ直ぐ帰るのよ?」

「はい」

「天照にもあなたのことは話しておくから」

「えっ」

驚いていると、嘉瀬はイタズラっぽくウィンクしてみせる。

「次は天照館の調査なの、この頃色々立て込んでいてね、大人の世界の話だから、あなたたちが気にすることじゃないのだけれど」

どういうことだろう。月詠の次は、天照館を調査するなど。

(やっぱり、なにかあるのか?)

考えてみても分かりそうになかったが、それ以上に今の一言が気になっていた。

豊の気持ちをまたもや見抜いて、嘉瀬はニッコリ笑いかけてきた。

「安心して、元気だったって言っておくから」

「え、あの」

「心配かけたくないんでしょう?」

豊はまじまじと嘉瀬を見詰めた。

そして、再度、今度は深々と頭を下げていた。

「よろしくお願いします」

本当に、本当によろしくお願いします。

心苦しい想いで送り出してくれて、あまつさえ夏にはあんな事があったというのに、心配をかけていないはずがない。余計な重荷を感じられてしまうことだけはなんとしても避けたかった。

心からの思いを込めて豊は頼み込んでいた。

「ええ」

嘉瀬は答える。

「それじゃ、またね」

最後の台詞はただの挨拶だったのか、それとも、再びここに訪れるという意味だったのか。

顔を上げたときには、嘉瀬はすでに背中を向けて暮れなずむ街を颯爽と歩き去っていく所だった。